やっと判ること
082:私を動かすものはこの想いだけ、もう誰にも止められない
灼けつくように暑い季節を過ぎて立秋を迎えればもう涼しい。朝晩の寒暖差が開きながら気温は徐々に下がって冬への階段を登っていく。外套が必要になるかと思えばすぐに襟巻きが手放せなくなる。慶介はあてがわれた単身者向けの共同住宅へ帰ってきた。表沙汰にならない団体に籍を置き、そのために生きてきた。慶介の存在意義も相棒もこの組織が用意した。公にするにはあまりにも抽象的で現実味のない組織であるから、慶介は十代で一人住まいをする変わり者として近所付き合いをしている。一人暮らしにありがちな自堕落や迷惑を起こさないので、周囲には家庭環境の相違として認識されている。
夏の日差しに眩しく反射した白いシャツもそろそろ上着が入用だ。衣替えも近いし、気の早い同級のものはすでに上着を着て登校した。携えるタイプの鞄を提げて慶介は階段を登った。明確に利潤のある組織ではないから慶介の住処もそうそう贅沢は言えない。カンカンと塗装の剥げた鉄階段を登る。慶介は茫洋と考え事にふけっていた。出された課題の提出期限と、組織における自分がやるべきこととの兼ね合い。組織を極端に重要視すると学校生活に支障をきたす。漏洩や発露を防ごうとするならまず、何も知らない一般社会での生活に口をはさむ隙をなくすことだ。良きにつけ悪しきにつけ、目立つと周囲の監視の目が厳しくなる。ほどほどであるのが肝要だ。<王>である慶介の相棒とも言える<守護者>のクリスがユイナに主が見つかるのかもしれないと言っていたのを思い出す。実力はあっても統べるものがいなくては意味は半減する。どうでもいいとは思わないが、過度に期待はしない。そのあたりの思考が慶介はあまりブレない。幼い頃から検査と測定を繰り返し、最適な組み合わせとしてクリスに選ばれた。波状や様々なグラフと数値化された己とに慶介は慣れきっている。
ガチャガチャと物音がした。近所の者は慶介と生活リズムが違うものがほとんどだ。夜働きに出かけたり休日が不定期であったりする。だから慶介は越してきた時の挨拶程度にしか近所の顔を知らないし、近所も皆そうだろう。この時間に誰が、と思って冷静に足を運ぶ。
「よぉ、ケイ」
それ、は慶介の部屋の前にいた。素早く隠されたものは針金だ。まだ高い日が鈍いそれの煌めきを生む。慶介の眉が震えた。慶介をケイと省略して呼ぶ男は一人しかいない。幼い慶介を振り分けた連中は下手をすれば慶介の名前さえ知らない。慶介が長じてから知り合った連中もたいていは苗字か、慶介と名前を呼ぶ。
「団長」
組織の中で慶介が所属する団体のトップがこの男だ。九条という。それが下の名前なのか苗字なのかさえ曖昧なままだ。くせっ毛な黒髪はてんでバラバラに向きを変えて巻いている。少し目尻が下がっているので少し人が好さそうな、油断を誘う見た目だ。だがそこに眠る漆黒はけして玉ではない。団体の指揮と動向や調整をこなしながら敵対勢力も確実に削いでいく。
奇抜な服装をするので顔立ちの良さはほとんど目立たない。そもそもその奇抜な服装の所為で印象がそこへ収斂する。顔立ちを訊かれると首を傾げるハメになる。品がいいはずの黒い上下を着ていながら中のシャツは真紅でタイは緑である。人となりを聞かれてもほとんどが服装を誤認して答える。しかも本人はそれを判ってそういう格好をするのだから性質が悪い。オブラートに包まれた性質だってけして良くはない。慶介はこの男と関係を持った。一時の迷いであろうと、実際にそうなれば目が覚めるだろうと思って了承したが慶介の意に反してこの男は関係を長続きさせ、あまつさえ男女の仲であるかのように慶介を扱う。寝床で何をされるかはもう判らない。
「何しているんですか」
「エロ本でも探そうかと思って」
「帰ってください」
タレ目とニヤつく口元で印象はことごとく悪い。慶介はわずかに眉を寄せて鞄を掴む手に力を入れた。ぎりり、と布地が鳴った。まだ言葉遣いが荒れていないので冷静な方だ。
「そんな事言って。俺とはち合わせるなんて運命かもしれないぜ?」
うそぶいている九条こそ運命など信じていないのだ。人が雄弁になるのはそれが確実に真実であるか確実に嘘であるかのどちらかだ。嘘か真言か曖昧な事象を語るとき、人は抽象的になる。推察と憶測で埋めつくされたそれは砂上の楼閣だ。
「ケイ、お前最近調子悪いな。気になることでもあるか。ユイナの<王>のこと、気にしてンの」
ユイナの探す主は<王>という立場になるから慶介と同等もしくは、という位置取りになる。気にならないといえば嘘だがひがんだりするほどの熱意はない。答えずに睨みつけるのを九条はふんと鼻で笑う。嘘をつけば見破るし本当のことを言っても馬鹿にする。九条は童話に出てくる猫のようにニヤニヤと笑いながら慶介を追い詰める。
いくら特殊能力があっても、<守護者>を持つ己のほうが正当であると思っても。九条の余裕は崩れないし慶介の牙城をあっさりと突き崩した。抱かれるたびに慶介は自分を新しく再構成し、九条はそれを毀す。これでどうだと思っても九条の指摘は鋭く意表をつき、そのたびに慶介は底辺を這う。どんなに努力しても足りないのだ。終わりなどないのかもしれなかった。慶介は九条の本名さえ明かしてもらえていない。慶介の胸元で指輪がチリリと鳴った。それはつなぐ鎖だ。
「どォした、ケイ?」
口を閉じて立ち尽くす慶介の顔を覗き込むように九条が体を折る。慶介も長身だが九条も決して低くない。
「泣くくらいの可愛げがほしいね」
「だったら自分など構わないでください」
感情の起伏を幼い時から抑制されてきた慶介にとっては感情の爆発はなかなか経験し得ない非日常だ。きついことを言われればそれなりに傷つくし怯むがそれが表に出ない。可愛げがないという九条の言い分は大抵言われてきた慶介の欠点だ。
慶介の目は潤みさえしない。重そうに瞬く睫毛の奥の闇色は揺蕩う湖面だ。水輪さえ生まないそれは静謐に冷たく無機物だ。九条は鼻を鳴らすと顎をしゃくった。意味がわからない慶介は動かない。九条は焦れたように取っ手を揺すった。
「開けろって言ってんの」
慶介がむっと眉を寄せて言い返した。九条の言われるままになるのが面白くなかった。
「開けてどうするんですか。同衾しますか」
棘のあるいいように九条の表情も渋くなる。九条は人を食うが、食うだけあって精通もしている。大抵のものの衝動の理由さえ九条は解明してしまう。鉄仮面のように動かない慶介の表情は内部の動揺も衝動も稚気さえも隠す。はたから見れば慶介は冷静に対応しているだけだ。
九条の口調は苦々しげだった。
「お前ね。言葉でごまかせると思うなよ」
「シますか」
「即物的ならいいってもんじゃない」
慶介は口を閉じた。言い回しも感情さえも疎ましかった。何をしてもダメだと言われる。だったらどうしろっていうんだ。年若さの焦れが唯一慶介の年齢相応だったが発露するタイミングが悪すぎた。
「自分は性を商売にはしていない」
「あぁそうかよ、わかったよ」
がん、と九条の脚が扉を蹴りつけた。冷静な九条らしくない行動に慶介が息を呑むが手遅れだった。九条はすぐさま踵を返した。慶介とすれ違う際にさえ何も言わない。揶揄も親しみさえもない。ただ足早に立ち去る靴音だけがカンカンと響いた。
こだますそれを聞きながら慶介は引き止めなかった。引き止めても無駄だと考えた瞬間からその気がなくなった。数値化に慣れた思考は確率の低い行為を諦めやすい。どうせ事が起きれば九条とは連携して動かねばならなくなるし、嫌でも顔を突き合わせる。それが待ち遠しいような億劫なような正反対のそれに惑いながら慶介は振り向かなかった。九条の気配が遠のいた。ひどく疲れた。
九条の過度な接触が減った。事あるごとにまとわりついていた腕も熱も慶介のそばにはさっぱりよらない。それはつまり九条だどれだけ不必要に慶介にかまっていたかということと、同時に九条の親しみの深ささえも暗示した。断絶が慶介は少し辛かった。声をかけられれば華やいだし話が終われば沈んだ。慶介の浮き沈みには誰も気づかなかった。相棒のクリスでさえも何も言わなかった。もともと慶介は感情が表に出ないし抑制する訓練も受けている。
任務をこなし学校生活を送り、それでも慶介は浮き沈みを繰り返す。揺らいだ。九条が話しかけてこない。まとわりつかない。それは望んでいたことのはずで、それなのに慶介はいちいち失望と期待を繰り返した。九条も表向きは何事もない。心裡は知れないが、少なくとも慶介と何事かがあったとは匂わせない。それがひどく負担だった。惑っているのは自分だけなのだと。九条にとって自分はいつでも失くしてもよいものであったのだと思い知らされるのが苦しかった。
「大丈夫?」
クリスの声に目を上げる。書類の作成が滞っていた。短く返事をしてから作成の再開をする。日常生活に乱れがあってはならない。それは、弱さだ。そういう弱点を極力なくした組み合わせとして自分は<王>に選定されたのだ。存在意義に関わる。好悪の情など一時の峠を越せば笑い話にさえなるというのに。ぎりぎりと痛い。四肢が重い。頭がぐらついた。クリスに心配されるなど失態でしかない。見限られるかもしれない。瞬間、奔る思いがあった。
九条にはもう見限られたんじゃないか
激痛が走った。机に突っ伏して喘いだ。喉がヒュウヒュウと鳴った。唾液が唇を湿して垂れ、口は閉じてもいないのに息ができない。くるしい。胸に爪を立てるように手を当てた。シャツをつかむ。爪が軋んだ。痛い。いたい。なにが――どこ、が?
「大丈夫?」
クリスの心配そうな、顔が。クリスが引っ込んだ。九条だった。九条がクリスに何か言うのが聞こえた。だがそれはただの音であり意味を成さない。頭がガンガンとした。クリスは九条の説明に納得したらしく一言だけ、任せますと言った。九条の手が慶介の襟首を掴んだ。猫の子のように吊り上げられて慶介が咳き込む。
黙ったまま慶介を立たせて追い立てる。荷物さえ意に介さない。荷物が、という慶介を九条は掴みあげた襟を引き上げて喉を詰まらせた。咳き込むことを冷淡に見据えながら荷物は後でいいだろうと気遣う。引き立てられたのは九条が私室として使うスペースだ。用のあるものしか入ってこないし、そもそも九条のような面倒な輩と積極的に関わりたいものなどいないから事実上袋小路だ。突き飛ばされて慶介は床に転がった。床には布が敷き詰められていてふんわりとした毛足が慶介を緩和する。絨毯のそれは部屋一面に敷き詰めるには毛足が長いが絨毯としては短毛だ。
九条が覆いかぶさる。破る勢いで襟を開かれた。釦が飛ぶ。鎖で首にかけているリングが鈍く光る。それを九条が見せつけるように咥えた。肉食獣のそれに慶介の背筋が泡立った。恐怖。慶介の能力さえも九条にはなんでもないのだ。雷吼という名を戴いてなお、慶介は九条にかなわない。
「…――ぁ…」
破かれたシャツの奥の胸を九条が吸う。頂きを舐られて慶介の腰が跳ねた。
「――っぁ、やああ、あぁあああ」
悲鳴と同時に快感が慶介の腰を、体を走り抜けた。九条は殊更にあからさまなことはしない。ただ唇を寄せているだけだ。それなのに慶介の体はもう交渉の開始を読み取っている。
「やめっやめて、くだ、さ――」
九条の舌の紅ささえもが慶介の熱を煽る。九条は行為をやめない。吸い付いては舐る。体が慶介の支配を振り切った。慶介の自意識さえ振り払ったそれは貪欲に快楽を貪る。
「い、や、――!」
ブルッと身震いした刹那に九条が止まった。口を離す。大きな手が慶介の頬を包んだ。
「ばーか」
優しいのだと思った。くしゃりと歪んだ慶介の眇められた双眸から涙があふれた。頬を滑っては落ちていくそれを九条は拭ってもくれない。ボロボロと泣きだすのを九条はただ、穏やかに見つめていた。
「少しさ、お前は素直になれよ。感情のままに動いてみせろよ若いンだから。そんな若いうちから抑制されてるなんて枯れてるようにしか見えねぇんだよ」
濡羽色の目が見開かれる。すぐに収束して眼球自体が漆黒であるかのようだ。潤みきったそこは玉ではなく生命の宿るそれだった。浮かんだ涙が火照った頬を濡らしていく。
「慶介」
初めてだった。淡白な九条の声で、こんなにも感情豊かに呼ばれるのが。親しみと悪戯と意地悪と好意が満ちた声が慶介の耳朶を打つ。噛み締めた唇に血がにじむ。痛みは感じなかった。九条の指先が撫でて初めてそこに思い至った。
「欲しがれよ。欲しがらないで手に入るものなんてないんだぜ」
けいすけ、と呼ぶ声が遠く愛しい。安心した。母親の慈愛のように恋人の囁きのように。それは自分を肯定する。
「俺が好きなのは、お前なんだぜ」
こつん、とあたったのは額だ。九条のくせっ毛の奥に眠るビスクの額。慶介は前髪を上げて額をあらわにしている。慶介の黒髪を梳くようにして九条は慶介を撫でた。それは幼子に施す優しさと恋人に対する寵愛だ。
慶介の手が胸ぐらを掴みあげる。ぐんと引っ張られて九条がバランスを崩した。両手をついて堪える胸元のシャツを引っ張った。歯を立てる唇も涙をこらえて震える目元さえも。掴み上げるふりで引っ張ったシャツで隠した。グスグスと鼻が鳴った。洟も涙も抑制を振りきって出放題だ。九条が慶介の頭を抱えるように抱きしめた。
「…――ッ…う…」
泣いたのは初めてだった。不本意な検査結果や測定結果が出ても慶介は泣かなかったし泣く理由はなかった。泣いても仕方なかったし、泣く暇などなかった。
「ばかだな」
九条の抱擁は暖かった。慶介の肌と馴染む体温がじんわりと融けていく。境界線さえ曖昧になって慶介の体は九条に融け出し、九条の情報が慶介に流れ込む。
「団長」
「名前で呼べよ。可愛くないねー」
喉が震えた。唇がわななく。九条が待った。いつもどおりのニヤニヤとした笑いを浮かべながら。それでも平素に感じる嫌悪感はなかった。
「く、じょう」
「抱かれたいだろ?」
口が裂ける笑みだ。歯をむき出すそれに慶介が笑んだ。涙があふれた。
「九条!」
どうでもいい。名前も。君のあり方さえも。君がここにいてくれるだけで、いい。君が自分を求めてくれるなら、自分も君を求める。好きだと、思った。
「抱かれたいだろ?」
慶介の方から腕を首へ絡めた。九条の肩を首を抱き寄せて唇を重ねた。触れ合う場所から融けていくようだった。九条の熱は心地よかった。眠れない夜に抱く自分の膝や鼓動よりずっと強く、ずっと安堵した。皮膚さえも超えて熱が融けていく。しゃくりあげるのが止まらない。慶介は初めて、何度も何度も泣いた。
「ばかだな」
九条が涙まみれの頬へ頬を寄せる。涙を介して熱が溶けるようだった。慶介の情報は九条に向けて放たれ、九条の情報を慶介が受け入れる。
「あ、ぁあ、あ…――…」
慶介が笑う。恍惚とした笑みに、九条は笑い返した。慶介の表情は禁欲的なそれからひどく情を誘う、淫らで愛しいものだった。濡れ光る頬や唇を何度も吸われた。
《了》